長谷堂の戦い

“関ヶ原の戦いは、上杉家からの直江状がきっかけであった”
西暦1600年(慶長5年)徳川家康の圧力に抵抗した「直江状」をきっかけに家康の会津討伐が始まる。しかし、石田三成の挙兵を知った家康は、会津討伐を最上義光に託し引き返す事に。こうして、天下分け目の合戦、西軍「石田三成」VS東軍「徳川家康」の関ヶ原の合戦が始まった。
 一方「慶長出羽合戦」と呼ばれるもう一つの関ヶ原、上杉軍VS最上軍の「長谷堂の戦い」が開戦。山形県のほぼ全域で、東軍の最上軍と西軍の上杉景勝の重臣直江兼続の軍が激しい戦いを繰り広げた。山形市 最上義光歴史館に所蔵される長谷堂合戦図屏風(斉藤茂美氏蔵)にその合戦の様子が描かれている。
長谷堂合戦図屏風
右手には、有名な鉄の指揮棒をふるって猛追する大将最上義光軍、左手には、鉄砲隊に守られた寄せ手の大将直江山城守が描かれています。
長谷堂合戦図屏風 長谷堂合戦図屏風
右隻が9月15日の様子。左手には、軍配を持つ直江山城守ほか上杉軍の精鋭が描かれている。右上の建物が長谷堂城。
左隻が10月1日前後の様子。退却する上杉軍と追撃する最上軍が描かれています。
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【長谷堂合戦図屏風(はせどうかっせんずびょうぶ)】最上義光歴史記念館 所蔵最上義光歴史記念館ホームページ
※文章の一部ホームページより引用

直江状について

直江兼続慶長五年2月、越後領主だった掘秀治が当時政権を握ろうとしていた五大老筆頭の徳川家康に、上杉景勝が会津で武備を整えて謀叛を企んでいると訴えでた。家康は兼続の旧友、西笑承兌に「謀叛の噂が流れている」として早期の上洛を勧める手紙を書かせ、景勝の重臣・直江兼続宛てに送った。しかし、兼続はその書状に対し上洛を拒絶する返書(直江状)を送り、家康の怒りをかったとされる。その直江状が関ヶ原の戦いのきっかけともなったといわれる。
直江状
【直江状の写し】米沢市上杉博物館 所蔵伝国の杜ホームページ

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