前回の日記から丁度ひい廻り、水無月に入り早一週間が過ぎましたが、皆さま如何お過ごしかな?
最上じゃ!
実は今年の水無月(6月)は記念すべき月なので御座る。
山形県旧県庁舎、つまり現・山形県郷土館「文翔館」建物が完成したのが、大正5年(1916年)6月。
2016年の今年が記念すべき100年なのじゃ。
明治9年、山形県が成立、同10年に山形県庁舎が建設されたのじゃが、明治最後の年となった同44年5月の山形市北大火により消失。
ただちに復興が計画され、大正2年4月に着工、同5年6月に完成したのが現在の山形県郷土館「文翔館」(旧県庁舎及び県会議事堂)じゃ。
昭和50年まで県庁舎として使用されておったが、県庁移転後の昭和59年に国の重要文化財に指定され保存される事となった。
その後、昭和61年から平成7年9月にかけ10年に及ぶ修復工事が行われ、完成。
修複工事にあたっては、極力在来の材料を使用し、従来の工法、施行による創建当時の姿の復原を目指した。
建物の外観、内部はもとより、カーテン、壁紙、シャンデリア、絨毯など、細部に至るまで出来る限り復元を目指し、床材のリノリウムは、日本では既に製造されていないため、ドイツ製を使用。
議場ホールは美しいヴォ-ルト天井や正面出入り口上のバルコニーを復原。
斯様な、「古き良き大正文化とロマン」を今に伝える「文翔館」の記念すべき年に、この会場にて「第二回山形夏の陣」という武将隊文化の祭典が開催出来ること、武将冥利に尽きると共に身の引き締まる思いに御座る。
各地の同志の皆と共に是非とも成功させねば!
さて、前置きがだいぶ長くなってしまったので、前回の続きをサクサクと参ろう。
長谷堂城址、八幡口よりスタコラサッサ歩を進め山頂の屋敷跡はもう目前。
おすすめ周遊コースの道標には従わず、ショートカットコースで山頂を目指すとすぐに赤い鳥居が並んで目に入ってくる。
そう、ここがまぎれもなく長谷堂城が存在した城址。
登り切ると一気に視界が開け「長谷堂城址」の石碑が出迎えてくれる。
下界を見下ろすと山形市内、遠くには微かに山形城(霞城公園)も確認出来る。
良い風が吹いておるので、ここでちょっと一休みがてら腹ごしらえじゃ。
これじゃないとはじまらぬ!
416年前のあの時は落ち着いて飯を味わうどころではなかったからのぉ。
山頂から眺めると当時、上杉の直江軍が本陣を敷いた菅沢の山は目の前、距離は約1㎞程のところ。
直江軍からすればこちらの様子をうかがうには絶好の布陣であったろう、が、こちらからも良く見渡せ、敵の動きは手に取るようにまるわかりじゃ。
当時の長谷堂城主は、志村伊豆守光安殿。
この志村殿が頼もしき漢なのじゃ、年の頃もわしと近く、なにかと最上家のため力を尽くし成功の原動力となった、今でいう「出来る男」。
この長谷堂戦でも、家臣の大風、横尾ら2百余の足軽で決死隊を組み、上杉軍へ夜襲を仕掛け、8名の犠牲者を出したものの、上杉軍100名以上を討つ大戦果を上げておる、9月16日の夜の事であった。
「たかが小さな山城」と高をくくっておった直江山城殿だが、すでに9月下旬、ここまで長谷堂城への3度の総攻撃を試みたが城は落ちなかった。
長谷堂城の周囲はあたり一面田んぼ、直江軍の兵は、ぬかるみに足を取られ動きを封じられ、更に我が弟、楯岡甲斐守光直率いる鉄砲衆と弓隊の一斉射撃を浴び大苦戦。
副将・鮭延越前守秀綱殿の見事な奇襲戦にも翻弄され、最上精鋭部隊の前に城を落とせぬまま関ケ原、西軍敗戦を知ることとなったのじゃ。
こうして2万人以上とも伝わる上杉軍の攻撃から我が最上軍はたたの数千の兵で山形領を守り切ったのじゃ!
しかしながら、双方共に多くの尊い命の犠牲を払った事にはかわり御座らん。
今にして思えば血で血を洗う戦のなんと虚しき事か。
そんな思いで城址を後にして下山致した。
城址公園周辺にはこの戦で散った戦没者の慰霊碑があちらこちらに立ち、今なお、時折花を手向け偲んで下さる方がおられます。
そして、長谷堂城と菅沢山の丁度中ほどあたりの田んぼの所には、剣聖の誉れ高き、上泉信綱殿の孫にして剣豪と呼ばれながらこの戦に散った、上杉方の上泉奏綱殿の魂を弔う「主水塚」がぽつりと立っております。
この田んぼこそが、思うように長谷堂城を攻めきれず手をこまねいて焦る直江軍が、最上軍のあぶり出しを狙って「刈田狼藉(青田刈り)」を決行した田んぼじゃ。
この直江軍の暴挙に黙っていなかったのが、出羽の猛将、鮭延秀綱殿。
この所業が鮭延殿に火を点けてしまった。
怒り心頭ながらも冷静沈着な鮭延殿は、自分の手勢を引き連れ田を荒らす兵達に突撃し、電光石火の早業で見事蹴散らした。
後々までの語り草となる大活躍!
ちなみに、最上四天王に名を連ねる「鮭延秀綱」と「延沢(野辺沢)満延=のべざわみつのぶ」、この両名は力持ちと言われたわしでさえタジタジのパワーファイターなのじゃ。
関ケ原の結果により、攻守逆転した最上と上杉。
我が領地を好き放題に荒らされて黙って帰すわけにはいかん!
撤退する上杉を追撃となったのじゃが、この時のわしの姿が山形市内、霞城公園の騎馬像なのじゃ。
我が指揮棒が指す方角は長谷堂城、そして追撃戦の舞台となった富神山の方角じゃ!
日ノ本にたったひとつ!二本足で立つ躍動感たっぷりの騎馬像は是非、山形城址・霞城公園にて御覧下され。
この追撃戦でわしは迂闊にも兜に被弾してしまったのじゃが、その弾痕が残る兜「三十八間総覆輪筋兜」の実物が、霞城公園すぐ隣に御座います、最上義光歴史館に常時展示して御座る。
入館料は無料
開館時間は午前9時から午後5時まで (入館受付は午後4時30分まで)
休館日は月曜日(国民の祝日と重なる場合はその翌日)
山形にお越しの際は是非こちらも併せて御覧頂きとう御座る。
そうそう、実は長谷堂城の大手門の門扉の実物もしっかり現存しておるのじゃ!
この貴重な歴史の証しは、山形市内の小白川にある山形大学の附属博物館にて常設展示されておる。
こちらも入館料は無料じゃ。
前々回紹介致した、我が愛娘・駒姫の菩提寺、専称寺からもほど近いので興味のある方は足を運んでみて下され。
さて、だいぶ長くなってしまったので古戦場・長谷堂編はここら辺で終いに致そう。
まだまだ伝えきれてはおらぬのじゃが、この位予習しておけば「山形夏の陣」でも楽しんで頂ける事で御座ろう。
本日はここまで!
最上様
「文翔館」建造100年、おめでとうございます。
「とっておきの音楽祭」の時に議場ホールを見学し、
貴重な会場で開催された「夏の陣」を想像して感動いたしました。
「第二回夏の陣」、楽しみにしております。
朝早くから「血湧き肉躍る」ぶろぐの更新有難うございます。
最上様の筆にて「長谷堂の戦い」が甦りましたね。
上杉軍の猛攻撃に迎え撃つ最上軍の志村様、鮭延様、楯岡様の勇ましい戦い、
まるで目の前で繰り広げられているかのように興奮致しました。
写真で見ると本当に直江軍の本陣が目の前ですね。
ここを突破されると山形城が危ない!
「最後の砦」を守ろうと皆様必死の戦いだったのでしょう。
そして上杉軍の撤退を追撃した最上様の勇姿、格好いいですね。
懐かしい鮭様とご一緒の写真も有難うございます。(^^♪
戦いの舞台となった長谷堂城を彷彿させる慰霊碑や石碑、塚なども多くあり
長谷堂城址公園に是非とも行きたくなりました。
シリーズでのご紹介、有難うございました。
いよいよ「夏の陣」まで後10日。ご準備は進んでいらっしゃいますか。
「長谷堂の戦い」をこの目で見たい!是非「夏の陣」でご披露くださいませ。
梅雨入が近いのかムシムシした日が続いております。
お疲れのないようにお身体お労わりませ。
出羽、またです。(o・・o)/~
幕末まで、山形を最上家が治めていたら、どんな歴史になっただろう。間違えなく、東北地方の大都市は、仙台市か山形市でしょう。そして、戊辰の戦いは、最上家は果たして、旧幕府側か明治維新側のどちらについただろうか?
最上家は、江戸時代旗本として、子孫は存続したものの、大名家でなくなりました。山形を治めたのは、その後は、わけあり大名。あの老中水野忠邦とか。そして、しばらくは、徳川家光の腹違いの弟であることを隠した保科正之、後の会津藩祖。
そういえば、山形では江戸時代でしょうか?いうことを聞かない子供に、「直江がくるぞ」と言ったとか。また、直江は人間の仮面をした鬼と言ったとか。せっぱつまった直江軍は首をばらまいたようで。
天地人では、正義のヒーローの直江兼続公。実は、ブラックもあったようで。