こっ、これはっ!?
我が米沢城下を見回りの途中、偶然見つけた小さき社・・・
謎めいたその社の存在に、あーでもないこーでもないと、足りない知恵を絞る上杉景勝が今宵の筆を執る。
今宵、これより我らは詰所近くの皇大神社夏祭りに出陣致す。
通称たつまち商店街に建立された「皇大神社」は、上杉の米沢移封に伴い、越後魚沼郡から会津を経て米沢に移された由緒ある神社で御座る。
現在の場所には、およそ400年前建立され、縁結び、子宝、厄除けの神様として町の人々の信仰の中心となった。
大正6年5月の米沢大火で本殿が焼失したが、その後再建され現在に至っておる。
そして、ちと紛らわしいのだが、米沢にはもうひとつ「皇大神宮」なる社もある。
それが此方
この「皇大神宮」は、およそ450年前、我が父、上杉謙信公が越後糸魚川の地に伊勢神宮の御分霊を頂き、遷座されたのが始まりとされておる。
その後、上杉の国替えに伴い会津に移され、関ケ原の大戦の後、某が米沢に入部、兼続と共に米沢城下を築いていく中で、城下の重要拠点として三の丸巽(辰巳)の方位に守護神として置いた社に御座る。
見回りを終え、帰城の途についたその時、冒頭申し上げた小さき社に出会ったので御座る。
さて、城に戻ろうと馬の歩を暫らく進めると、その傍らに立つ石碑が目に入った。
こんごうあいぜんみょうおう・・・・
なに!
金剛愛染明王だと!?
石碑の奥には小さき社が・・・
馬をおりて近くへ
何故、愛染明王堂が此処に?
城に戻るなり早速調べてみたところ
現在の「愛染明王堂」の社は、元の社が大正8年の米沢大火で焼失(※米沢では大正6年と8年に大火にみまわれておる)し、昭和11年に再建された建物との事。
御本尊はもちろん愛染明王であり、大火の際には付近の住民が持ち出して保護され無事であった。
最初の社が建てられた年代は上杉が米沢へ入った頃であるため、直江兼続が此処に置いたのではないかと伝えられている。
我が家臣・直江兼続と申せば【愛】の前立てがトレードマーク
そして、その【愛】の前立ての由来には諸説あり、「愛染明王説」「愛宕山大権現説」「民愛説」などがあり今以って論議が絶えぬところである。
この社を兼続が建てたとすれば、「愛染明王説」が最有力となろう!
しかし、これらを立証する有力、明確な証拠や情報を伝える文書の類が、残念ながらいっさい残されておらぬ。
故に、明言することは憚られるので御座る。
社の中には御本尊の愛染明王が鎮座しておられましたが、布で覆われ御姿を拝見する事は叶いませぬ。
そして、ここからは某の憶測で話を進めて参る。
結論から申せば某は、この「金剛愛染明王堂」は直江兼続が此処に建てたと考える。
なぜならば、この「金剛愛染明王堂」の位置が米沢城を軸に考えた場合、三の丸内、辰巳(東南)の吉方位にあるからで御座る。
見事に東南の吉方位を指しておる。
そしてこの線にはもっと重要な意味が潜んでおる。
約400年前には、米沢城内本丸では城の東南の方位に、度々この日記で紹介致して参った上杉の菩提寺「法音寺」が建てられておったので御座る。
「法音寺」には謙信公の御尊骸を祀る御霊廟があり、御本尊は大日如来尊。
本来、愛染明王とは大日如来の教えを伝える仏であり、その関係はとても深い。
更に城から東南の城下二の丸内すぐの所に直江兼続の屋敷を置いておった。
米沢城、御霊廟、大日如来尊、直江兼続の屋敷、金剛愛染明王の順で、全てが東南の吉方位に一直線に見事に並んでおる。
某はこの事実に偶然ではない、とても大きな意志を感じるのだが、皆様は如何に御座ろうか?
しかしながら、先にも申したが、あくまでこれらは某の考えた仮説である事を御了承頂きたい。
それでは、これより皇大神社夏祭りに出陣致して参る!
本日は是にて筆を置く。
撤収!
なんだか・・・難しいですが。
歴史とは深いものですね。
兼続様の愛は ただの「愛」では ないのですね。
次回、米沢に行った際には じっっっくり学んで参ります。
(ラーメンばかり食べている場合ではなかった←反省)
景勝様、こんばんはm(__)m
皇大神社夏祭りへの御出陣お疲れ様にございました。神社でのお祭りは風情があり良いですね(^-^)
此度の景勝様のブログを食い入るように読んでおりました。
夏祭りが行われた皇大神社は趣があり良き佇まい♪心静かになれそう☆
そして、東町皇大神社!
看板に謙信公と景勝様の御名前があるだけでも拝見せずには居られない衝動に刈られております(笑)
同じ名の皇大神社なれど、雰囲気は各々異なるご様子ですので見比べるのも良きかな♪
金剛愛染明王堂!
その名を聞くだけで心踊りまする(^o^)
社の中の愛染明王像が布で覆われているのは残念ですが、それは逆に創造力を掻き立てますので良いかもしれませんね。
兼続様の愛の前立ての由来。
私も様々な書物を読む度に考えますが、一般的には愛染明王説が強いのではないかと思います。されど、私は民愛説ではないかと思っております。義と愛の精神を受け継ぎ、民を愛し米沢の繁栄を心より望んだお方。兼続様の書物を読んでいくと愛染明王説の話がメインで出てきますが、ラストには民愛説も出てきますから歴史上の事実が例え何であれ結論が分からない以上、様々な憶測があっても良いのではないかと思います。分からないからこそ歴史ロマンに浸ることも出来ますしね(*^^*)ちなみにドラマでは民愛説を推しておりましたよね♪
金剛愛染明王堂を建てたのが兼続様であるという景勝様の御意見に賛同致しまする。
景勝様の御意見には納得のいくことばかり!
米沢城、御霊廟、大日如来尊、兼続様の屋敷、金剛愛染明王が一直線に並んでいるとは今まで気が付きませんでした。不覚……(泣)
これは偶然ではないと思います。まさに大きな意味を含んでおりますね。
次回米沢に参った時には方角も意識しながら巡ってみたいと思います!
景勝様!教えて下さり誠に有り難うございます!
……と、上杉話を始めたら切りがなさそうですし伊達軍の皆様からも再び突っ込まれてしまいそうですのでこの辺りにしておきましょう。
では、これにてm(__)m
追伸
景勝様のブログのコメント欄で大変恐縮ではございますが、伊達軍の皆様へ。
ご安心下さいませ。只今伊達家に関しても『独眼竜政宗』を見たり仙台に出向いたりして勉強しております(^-^)
上杉家のみならず伊達家も勿論応援しておりますのでこれからも宜しくお願い致しますm(__)m
景勝様
こんばんはヾ ^_^♪
上杉領内のお見回りお疲れさまです。
皇大神社の夏祭りも賑わったことでしょう。
確か御神輿に水をかけるお祭りだったと思いましたが
お天気はいかがでしたでしょうか。
景勝様におかれましてもご存知ない社がありましたか。
不思議な導きでの出会いとなったのですね。
「愛染明王堂」をもとにしての景勝様の謎解き、興味深く拝見いたしました。
これは新しい発見ですね。
今まで兼続様の兜の「愛」は愛染明王の「愛」だとばかり思っておりましたので
「愛宕山大権説」「民愛説」も初めてお聞きしました。
是非とも真実を突き止めたいものですね。
でも、あーでもない、こーでもないと現代に残っている事柄から
歴史に思いを馳せて空想することも楽しい作業です。
上杉の城下町、米沢にはそういう浪漫がありますね。
また新しい発見がありましたらいろいろ教えてくださりませ。
では、明日の兼続様のお祭り、お気を付けて出陣くださいね。
またでござります。(^o^)/