お晩で御座る、出羽守義光であるぞ。
いや~、しかし暑い!
秋も深まろうという今頃になって夏の様なお天道様のさんさんとした輝き。
いったいどうした事じゃ?
かと思うと陽が落ちたとたんの冷え込み。
う~む、気を抜くと風邪をひいてしまいそうじゃ、皆さんも油断召されぬように。
さて、先日のこと、秋空の心地好い日を選んで、馬にまたがり上杉領を散策と言う名の「偵察」に行って参った。
そこで、今宵から2回に渡り、その偵察記を綴って参る。
【上杉領偵察記 南部編 上】
此度は上杉神社から出発し、米沢市内南部方面へと向かいました。
先ずは慶長6年(1601年)に上杉が会津から米沢に移封された際、当時、雨が降るたび氾濫して町が水に浸かり困っておった「松川(最上川源流)」に、町づくりの手始めにと、直江山城殿が指揮を執って築いた「直江石堤(なおえ せきてい)」を目指す事に。
目的地を目指し馬を進めて行くと、「山形県立米沢興譲館高等学校」が見えて参った、米沢藩第9代藩主 上杉鷹山(治憲)殿が学問所を開き、鷹山殿の学問の師、細井平洲殿が命名した「藩校 興譲館」、その名を冠し、伝統を受け継ぐ県内屈指の進学校じゃ。
頭脳明晰、優秀な生徒達が集う学校である、ワシのおつむでは到底太刀打ち出来ぬ故、難解な問答など仕掛けられぬようにと、そっと馬を進め静かに通り過ぎようとしたその時!
道沿いになにやら上杉の「毘龍」の旗?
なんと!このような場所に斯様な貴重な史跡があったとは!
鷹山殿の時代には葬法が変わり、土葬となったため葬儀は廟所にて行われるようになり、以後、この地での葬儀は行われなくなったとの事じゃが、第3代以降の上杉藩主葬送の歴史を残し示す貴重な場所じゃな。
いやはや、思いがけず貴重な地に立ち寄る事が出来た!
此度の散策偵察は幸先がよいのぉ~、と上機嫌で馬を進めると
この川こそが、山形県内を縦断するように流れる「母なる川 最上川」の源流「松川」じゃ。
直江石堤跡は現在、米沢市指定文化財史跡「直江堤公園」として整備され、松川に架かる海老ヶ沢大橋のたもとから入る事が出来ます。
とてもきれいに整備され、市民の散歩や憩の場となっておる、わんちゃん連れの方のお散歩コースとしても人気じゃな。
うむ、一見無造作にただ丸石が積まれただけの様にみえるが、実際に上に載ってみると、がたつく事もなく非情に強固な積み方じゃ、この工法は蛇堤(へびづつみ)、蛇土手などと呼ばれる技術らしい。
ん~、直江山城・・・・、なかなかにやりおる。
思えばワシも、慶長出羽合戦及び関ヶ原の戦合戦の後に庄内領を治める事となって、酒田と山形を水運で結ぶ為にと、最上川の河道整備に着手したのじゃった。
特に最上川中流の「最上川三難所」の拡張、川底の掘削は最大の難工事であったのぉ。
そうか・・・、
ワシがこの川の中流、下流を整備しておった頃、山城殿もまた上流にて同じようにこの川を整備しておったのじゃな。
最上と上杉が互いに、同じ頃にひとつの川に関わっておったとは・・・、そう思うとなかなかに感慨深いものがあるのぉ・・・
と、足元を見ると・・・
栗じゃ!
しかもあたりを見回せばあちらこちらに!
そうかそうか、同じ川を整備し合った仲じゃ、山城殿、有り難く頂いて参るぞ、お主の代わりに美味しくいただいてしんぜよう。
出羽、ワシは先を急ぐでな
さて明日の出陣予定じゃ!
お天気はどうかのぉ~?
本日は此処迄!
さらばじゃっ!!
山城殿、ありがとう・・・、気が向いたら鮭送る・・・・・かも?
わたくし、釣りが得意なら、最上川の源流で、岩魚を釣りたいところ。岩魚には申し訳ないですが、食べます。合掌。
去年、ご厚意により、直江石堤と興譲館高校周辺、ドライブ、散策しました。確か、11月の下旬。懐かしいです。
名だたる、戦国武将は土木も明るいですね。例えば、武田信玄公の信玄堤。水を制する者、天下を制する。ですか。
土曜日は、仕事。日曜日はさてさて、どこへ…。月曜日休みだし、思いきって、京都二条城!?
最上様
連日の出陣お疲れ様でござりました。
お天気もめまぐるしく変わって対応が大変ですのう。
お風邪などひかぬようお気を付けくださりませ。
出陣の合間の上杉領の偵察もお疲れ様です。
「直江石堤」が今も現存していることにびっくりです。
当時は河川を整備することは大変なことだったと思いますが
兼続様や最上様が民を思い、河道を整備してくださったことが
今につながっていると思うと感慨深いですね。
上杉家の葬送の歴史を最上様から教えていただくのも思いがけないことでしたが
いろいろな歴史を知ることができました。有難うござりまする。m(__)m
思いがけない直江様からのプレゼントもよろしゅうございましたなあ。(-^〇^-)
続けての「偵察記」も楽しみにしております。
出羽、またでござります。(^o^)/