早いもので水無月ももうすぐ閉じようとしておる梅雨の真っただ中、
皆様如何お過ごしに御座ろうか?
上杉景勝に御座る。
梅雨とは申せど今年はまとまった雨が少のう御座るな。
冬の雪不足と相まってこの先の水不足が深刻な問題じゃな。
かと思えばいきなりな手加減無しの大雨で被害に苦しむ地域もあり、まったく以て自然は驚異じゃ。
さて、此度は我らの詰所のご近所にある、お手軽歴史観光スポットを紹介させて頂きまする。
なにしろ今年も「山形夏の陣」に参陣が叶わず。
詰所で留守居役を預かるも、すんごく暇だったのでぶらりとご近所散策して参ったのじゃ。
では、早速参ろう。
此度の紹介ポイントはこちら
先日の「ドラマチック戎市」でお世話になり申した粡町の商店街マップをお借りして説明して参ろう。
赤い★印が、我らやまがた愛の武将隊の詰所の位置に御座る。
今回は詰所から北側の赤丸で番号を振ってある場所を順を追って紹介して参る。
先ず最初に向かうのは
①虚空蔵菩薩堂(こくぞうぼさつどう)
この虚空蔵菩薩堂、元々は米沢藩の重臣、千坂家の菩提寺「一花院(いっけいん)」の置かれた場所。
同じ敷地内に立つ三重の石塔は、かの弓の名手、源平合戦でその名を轟かせた那須与市宗隆の供養塔。
菩薩堂と石塔は千坂家が建てたものと伝えられております。
千坂家は関東管領上杉氏の家臣で、越後守護・上杉氏に従い越後に移る。
その後、上杉氏を継いだ謙信公の家臣となり、その後の上杉家国替えに伴い米沢に移り要職を歴任。
この千坂家が那須家と親戚関係にあり、那須与市が守護本尊としていた虚空蔵菩薩像が伝わったようじゃ。
謙信公に仕えた千坂景親殿が慶長十一年(1606)に米沢にて死去した際、千坂家歴代の墓とし、
那須与市殿を供養する石塔は享保四年に、それ以前からあった塔の鞘堂として建てられたようじゃな。
一花院は幕末期に廃寺となっておるが、前田慶次殿の墓があったとの記述が資料には残っておるそうな。
続いては
②関興庵(かんこうあん)
こちら関興庵(關興庵)は応永十七年(1410)南魚沼郡石内村字関に開創され、慶長六年(1601)上杉が米沢へ国替えとなるに従い共に移り、上杉家第三代定勝公の時代に寺領地を賜り現在に至る。
この辺りは旧町名を北寺町と申して、この一帯に寺を集め、北から敵が攻めて来た時に対する防衛拠点として配置したのじゃ。
各寺には武器や武具を常備し、有事の際には寺に駆けつけ戦の支度にかかる。
墓石も盾や防御壁として使える様に工夫されておるのじゃ。
関興庵は直江兼続、大国実頼兄弟の生家「樋口家」の菩提寺であることは有名なので御存知の方も多いことで御座ろう、そして大国家の墓所でも御座る。
こちらは大国家の旧墓と新しい墓。
こちらは樋口家の墓。
墓地の随所に江戸時代からと思われる古い墓石が多く、否応なく歴史を感じさせてくれる。
このすぐ隣が
③東源寺(とうげんじ)
この東源寺は、元々信州飯山にあった直江兼続の母の実家の菩提寺。
正保二年(1645)に米沢に移って参られたのだが、そこに至った経緯については、ここで書き始めると、とてつもなく長く、尚且つ複雑な大人の事情を含む内容なので、いずれ日を改めて書かせて頂く事と致す。
こちら東源寺は直江兼続、お舟夫妻とその嫡子、景明(平八)の菩提を弔い位牌をお守りされております。
毎年、兼続の命日には法要が執り行われ、その日のみ拝観が出来ます。
普段は拝観は行っておりませぬのでご注意を。
境内に入ると右手に五百羅漢像が安置される羅漢堂が御座る。
この五百羅漢像は、凶作に苦しむ農民らの苦しみを思い、豊作を祈願し、同寺二十七世の宗岳和尚が仏師遠藤亀次に製作を依頼、天保の末から文久三年(1863)まで約20年の歳月をかけて彫られたもの。
わしも拝観致したが実に見事、「圧巻」の一言に尽きる!
これは必見に御座るぞ!
現在の羅漢堂は、昭和七年の再建とのこと。
拝観希望の方は予約を済ませてからお出かけ下され。
さて、ここらで腹が空いてくる頃じゃ。
④平和軒(へいわけん)
ここまでの道を戻り、今日の昼食は米沢名物の「塩引き寿司」を頂く。
創業80余年の歴史あるお寿司屋さん。
店内は昭和の名残が感じられ落ち着いて食事が出来る雰囲気じゃ。
此度いただく「塩引き寿司」は米沢の郷土料理のひとつ。
その昔、内陸の米沢では鮮魚の入手が困難であったことを逆手にとり、あえて塩引きの鮭を使って作る押し寿司。
そのお味は、昨今流行りのサーモン(トラウト)の握り寿司など遥かに凌駕する、上品で豊かな味わい!
鮭の程よい塩加減と寿司飯のバランスが絶妙で、お醤油は付けずにそのままいただくのがよろしかろう。
こういった繊細な味のバランスを保てるのが日本料理の真骨頂じゃな。
出来上がりの色合いが紅白になることから正月や祝いの席にもつきものの塩引き寿司、1100円也。
他にもお手軽な価格のランチタイムメニューなども揃っており、気軽に寄れる本格的なお寿司屋さんで御座る。
定休日は毎週火曜日。
御店主殿、御馳走様で御座った!
さて、腹ごなしに再び歩を進めて参ろう。
最後にご紹介致すのは、我らの詰所の裏通りになる西側の細道にある
⑤粡町公園(あらまちこうえん)
地元米沢の方にも意外に知られておらぬのだが、ここ粡町公園には米沢城三の丸の土塁跡がしっかりと残されておるのじゃ。
城下町米沢と言えども、町中は開発が進み、古くからの遺構はそう多くは残されておらぬ中、とても貴重な風景が詰所のほど近くに残されておるので御座る。
現在はご近所の子供たちの遊び場として平和でのどかな場所になっておるが、先の北寺町と共に米沢城の防備の要となっておった場所じゃな。
生い茂る笹のように見えるのは「矢竹」。
弓矢の矢柄(軸)の材料となる細い竹じゃ、竹が根を張り土塁を強固にし、武器の材料ともなり一石二鳥。
矢竹は真っすぐ成長するので、現在では筆の柄の材料などに用いられることも多いのじゃ。
塁上には五穀稲荷大明神の小さなお社が建っており、五穀豊穣を願うと共に、遊びに興じる子供たちの安全と成長を見守っておるようにも見えます。
さて、ここまで駆け足で紹介して参ったのじゃが、此度のコースはゆっくり歩きながら巡っても2時間もかからずにじゅうぶん楽しんで頂けるコースとなっております。
実際に御自身で観て廻って頂けば様々な発見や違う楽しみも御座りましょう、その場に居てこそ感じるものや、歴史や風景が語り掛けてくることも。
他にもご紹介致したい場所や話などきりがないのじゃが、いつの日か町歩きなどしながら、もっと深いところを皆様にお話し出来ればなどと考えております。
此度紹介させて頂いた粡町の他にも米沢市内には歴史の見どころが数多く御座います。
以前の米沢歴史紹介ブログをまだ御覧頂いたことのない方のために再掲載しておきますので、よろしければ併せてご覧頂き、米沢観光の際に役立てて頂ければ幸いに御座います。
梅雨明けにはまだほど遠いようで御座る、皆さまどうぞ体調を崩されませぬよう御身体御自愛下され。
長々と最後までお付き合い下さり有難う御座った。
では、またお会い致しましょう
これにて撤収!